My History

  4月15日、北海道虻田郡倶知安町で父忠男、母幸子の長男として生まれる。
姉が真面目でコツコツ派なのに比べ、 その全く反対の行動的で暴れん坊、やんちゃなくせに泣き虫、考える前に即行動…と、生まれた時から感受性が非常に強く、またとても行動的な子供だったようだ…
高校卒業までを倶知安町で過ごしたが、なんせ俺にとっては小さ過ぎる町だった。

子供の頃から音楽が好きだった俺は、中学に入って洋楽に目覚め、そしてベースと出逢う。
これは偶然の産物で、たまたま好きになったアーティストがみんなベースだった。 …と言うか、ヘソまがりな所が多々あるのでみんながギターを弾きたがってるのを横目に、無意識のうちにベースを選んだのかも?

  個人的には中学から始めたサッカーを高校に入ってからも続けたかったが、入学した高校にサッカー部が無かった事で大きく音楽をする事に歯車をかけた。
そして、運命の86年10月、俺の人生を変える事になってしまう衝撃的な1枚のアルバムが発売される。

  DAVID LEE ROTH/"EAT'EM AND SMILE"... 85年にVAN HALENを脱退したデイブ・リー・ロスのバンドと言うか、ソロプロジェクトなんだけど、 そこに当時N.Y.のアンダーグラウンドで活躍していた知る人ぞ知るベーシスト、ビリー・シーンが加入したのだ! (84年頃だったかな?BURRNって雑誌でいち早く彼が取り上げられた時、Billy Sheehanと言うスペルからビリー・シーハンと紹介されてた)

  彼がN.Y.で活動していたバンド、TALASのライブ盤を中学校の時に聴いた事があったんだけど、当時の俺は『絶対にキーボードだって!』と彼のプレイを信用しなかった。 それが元VAN HALENのヴォーカルと一緒なもんだから、MTVでP.V.がガンガン放送されちゃって、初めてプレイする姿を目の当たりにし、『こんな事が有り得るのか!?俺もこうなりたい!』 とミュージシャンになる事を心に誓う。あん時の衝撃って言ったらホントになかった。
  当時、俺はピックを使ってベースを弾いてたんだけど、彼を真似てピックを全部捨て、スリーフィンガースタイルに変え、高校卒業したら、『オラ東京さ行くだぁ!』と、 東京行きを心に決める。

  高校卒業と同時に音楽学校に通う為に上京するが、どこから見てもただの田舎者で、どう見ても勘違い野郎だったためにすぐ挫折、2年で北海道札幌市に帰る。
音楽はもう辞めるつもりだったが、音楽学校で出逢ったベースの師匠、中島先生の一言『お前のような人間こそがベースを弾かなきゃいけないんだ、どこに住んでもベースは弾ける! 絶対に諦めず続けるんだよ。』(確かこう言ったように感じるが…)
と同時に、高校卒業と共にバンドを始めるため札幌に出て来ていた倶知安の悪友が『もう一度ここで一から始めよう!』と言ってくれたので(確かこんな事言われたような…) 札幌をベースにバンド活動をスタートさせる。
しかしやはり勘違いの俺と倶知安の悪友達は誰からも相手にされず毎日とにかくススキノで呑んではそこら中当たりちらしていた…悲惨な生活でした。

  でもその中でも俺の事を理解してくれると言うか、打ち上げなんかでなんでもする俺を可愛がってくれる先輩達に出逢う事が出来て、 その人達の紹介で93年、初めてバンドらしいバンドを結成する。
トリオだったので歌を歌う事も経験し、ついに自分の思い通りに演奏しパフォーマンス出来るようになった。
  その甲斐があってか、ニューバンド結成の話しに誘われ、更なるステップアップのために94年、そのバンドに加入する。
そのバンドは評判も良く、メジャーレーベルからも話しが来たが、 バラードを増やしポップな曲を中心に曲を作って欲しいとの意見に、もっとハードに演奏したかったメンバー全員でその話しを断るが、結局上手く行かず95年に解散する。

96年、UpperSoulBreakを結成。当初はヴォーカルを含む4人編成だったが、 結成から1年後ヴォーカル脱退を機にトリオ編成になる。 それが功を奏したのか97年、コンテストで優勝(しかしこの優勝を決めたライブ審査は奇跡の連続だった! 本番2曲を客と審査員の前で演奏するのだが、2曲目の途中で俺のベースの音が一切出なくなってしまったのだ!しかし俺はベースを投げ捨てマイクを取ると、 客席に向かって飛び込み大暴れ!結果なぜか優勝)し、CDシングル1000枚プレスをゲットし、 おまけに発信ワンダーロケット (現在のライジング・サンの前身のイベント)でウルフルズ、ミッシェルガン・エレファント、ハイロウズ等が出演するスタジアムで15分の前座演奏時間をもらう。 これを見ていたジーンズ・ショップのスポンサー等が気に入ってくれ、そのジーンズ・ショップのCMに曲を使ってもらう。
  97年12月、ダブルス・レーベルから1st,Mini Album 『Still like a stone』リリース。ラジオ番組出演や道内ツアーと精力的に活動し、98年4月、 バンドの活動場所を東京を中心とする全国にするため再び上京。

  00年4月、インディーズ・レーベル、マットヘイトより2nd,Mini Album 『RHYTHMORIENTAL...ayaguatescore』を発表するが、ドラムが脱退。
よって1年間ヘルプのドラマーで精力的に活動し、91年9月、2代目の正式ドラマーが決定し更なる過酷なスケジュールで活動するが93年7月、ドラムが再び脱退。
その後何人かの知人にヘルプを依頼し活動を続けたが05年4月、半永久的に活動休止を発表する。
  04年夏頃より、友達以上恋人未満の関係でWEEDと言うバンドで活動すると共に、先の事が一切見えていないバンド?それともレクレーション?? April 31th(エイプリル・サーティーファースト、4月31日)を結成。

  05年9月より、WEEDに正式に加入。APRIL 31st共々精力的に活動する予定ではいたものの、11月12日をもってAPRIL 31stを脱退。
と同時期に、年に一回位しか活動しないだろう的なバンド、LARGE400へのヘルプが決定。
ライブとレコ-デーディングに参加。(コンピ『KIMICA GOLDEN PACKAGE』に収録〜Merchandise参照)

  06年に入り、LARGE400の関東代表ベースを平行しつつWEEDを活動するが、8月に2ndアルバムのレコーディングを直前にしてWEEDが劇的解散。 解散と言うよりは、軽く撃沈。
数日が過ぎ。。。と言うかほぼ翌日、higと新バンド結成を誓うと共に、チーム魚民結成。複数のバンド名の中から"Autumn Salmon"と命名。ドラマーも不在の中、 ミーティング(呑み会)を重ねつつ、世界征服を企む。
  そんな中、同年9月、ヘルプのドラマーを迎えての初ライブを行う。
世界征服を企んだがリハが追いつかず、たった3曲を(それもWEEDの曲を)演奏して再撃沈。

  07年1月6日、周りの人々にそそのかされ"ヨメイリマエ"との共同企画ライブを強行。
企画から運営、打ち上げまでのほぼ全てを"ヨメイリマエ"にお任せしてしまい、またも孤立する。
  しかし!同年2月、知人の紹介によりに若干二十歳のドラマーと知り合う。
初めてのリハで、俺&higが共に夢見ていた[『その日』の到来を実感する。
その勢いで、持ち曲の一発レコーディングと4月に初ライブ。
現在も生活にあっぷあっぷしながらも、希望多き明日に向かって人生の登山を続けている。